イエス伝

あとがき

ルナンの『イエス伝』や最近では遠藤周作の『イエスの生涯』など、また聖書学者の書いたものなど、著名な人の書いたイエス伝は沢山あるのは知っている。しかしわたしは一冊も読んでいない。自分のイエスに対する印象や感慨を整理し、できれば明確にし、少しは探求することに専念したいと思った。とても他人の印象を気にする余裕はなかったし、またそれらを読みたいとも思わなかった。

福音書に初めて接したのは、十八歳のときであった。その後数年間折に触れて福音書を読んだが、その頃もったイエスに対する印象と、現在のそれと基本的にほとんど変わっていないのに自分が驚いている。若い頃はイエスの呪縛があった。これを書いたことで、その呪縛が解けたような気がする。「正しいが、人間に出来ることではない」などと、つまらない分別を身につけただけかもしれないが、およそ四十余年かかったことになる。だらだらと生きてきたのである。

イエスが突然この世に生まれたのではないことは、聖書の中からもまた聖書外の研究からもある程度いえるらしい。ユダヤ人の前史があったのである。しかし旧約聖書を跡付けてその前兆を辿ることは、わたしの手に余ることであった。また福音書もよく読めたとは言いがたい。しかしユダヤの伝統の中からイエスが生まれたとしても、イエスがイエスである所以のものは、やはりイエス自身から来ているのである。ガリラヤのナザレで育ちながら、どのようにしてイエスがイエス自身になったのかは、依然として謎のままである。

イエスには、自分はメシアだ、との自覚が明確にあったと思う。それで宣教を開始したのである。またイエスには、この世の終わりは近いとの確信があった。それは天の王国が来る前兆である、そして天の王国は来るのである。それを知らせるためにイエスは世に出たのである。このいわば三位一体ともいうべき三角形は、イエスのなかに常に一体となって想起されていたと思う。どれが欠けてもイエスの本質が壊れてしまうのである。このうち一辺のメシアだけがイエスの信奉者たちのうちに今日まで残り、残りの二辺は十字架上の死と共に消失し、実現しなかったのである。

参考 資料編次頁以降

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公開日2007年11月20日
最終更新12月1日