イエス伝

21 世の終わり

三日目の夕刻、イエスはエルサレムの神殿からベタニアに戻ると、一人オリーブ山に登り、エルサレムの街並みを見ていた。何を考えていたのだろうか。エルサレムの街は夕日の残照のなかにほの暗く照らされ、神殿も薄暮の中に沈んでゆこうとしている。オリーブ山の麓の方からは、夕闇が忍び寄ってくるようなひと時であった。

弟子たちは、昼間のエルサレムの神殿で、イエスが祭司たちを相手にやり取りした言葉を思い出していた。神殿が崩壊するというイエスの言葉も、何か不吉なものを感じさせるのである。イエスが祭司たちに引き渡され、死刑を宣告されて殺される、という予告は何度も聞かされていて、弟子たちの意識から離れなくなっていただろう。一方、天の王国が近くに迫っている、イエスはその時また現れるという話も、弟子たちの耳朶から消えることはなかったであろう。その時は何時だろう、その時われわれはどうなるのであろうという思いが弟子たちの胸に去来して離れない。何人かの弟子たちが、イエスのところに来て、重大な秘密を打ち明けてもらうかのように、イエスに尋ねる。

133イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。4「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」(『マルコ伝』13:3-13:4)

弟子たちの質問は、天の王国あるいは神の国は何時来るのか、またその時どんな徴候があるのかと聞いているのである。イエスは、自分の名を騙って大勢の偽預言者が現れるが、惑わされないように気をつけなさいと忠告してから、次のように説明する。注意深く聞く必要があります。

137戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。8民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。 ・・・
14憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。15屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。16畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。17それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。18このことが冬に起こらないように、祈りなさい。19それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである。20主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである。・・・
24 それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、25星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。26 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。27そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。・・・
28いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。 29それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。30はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。31天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。32その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。33気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。・・・(『マルコ伝』13:7-13:33)

イエスは明らかに、この世の終わりを語っているのである。それが何時起こるかは自分にも分からない、天なる父だけがご存知だという。しかし「これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない」とはっきり言っている。言い換えると、この世代が生きているうちに、これらのことが起きると言っているのである。弟子たちが生きている間に、この世の終わりが来る、そして天の王国が来るといっているのである。英訳では、世代という訳になっている。あなた方は自分の目で天の王国を見ると強調しているのである。イエス自身はすぐ来る、もう来ていると思っていただろうと思う。イエスの言葉の節々にそれが感じられる。自分が死ぬ前に来ると予感していたかも知れない。このことは、ここまで来て分かることだが、イエスの宣教のバックボーンを成している。

よく考えてみると、イエスは宣教の最初から「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣言しているのである。天の王国が来るということは、地上の王国に替わって天の王国が来るということであり、地上の王国は破壊されなければ天の王国に替われないのである。だから天の王国が来るためには、この世の終わりが来ることは必然なのである。

それにしても、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」とはなんとすごい言葉だろう。何故このようなことが言えるのだろうか。イエスには、天の王国の存在とその縁って立つ論理ははっきり見えていたのである。それはどのような点から見ても、地上の王国より本質的で本来優先されるべきものだからである。

だがこの世の終わりということに関しては、イエスには具体的なイメージがあったようには思えない。そのことについて福音書のなかには、ユダヤの伝統的な通り一遍の表現以上のものはないし、イエスの生き生きした言葉の表現は見えてこない。そのことは当然起こることなので、その先のことに思いが占められて、世の終わりの描写には関心がなかったのであろうか。はっきりしていることは、この世は破壊されてしかるべきものなのだ。不完全で不義のこの世が破壊されなければ、天の王国は来ないからである。

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公開日2007年10月27日
最終更新11月1日