一日目
その日、午後を少し回った頃、イエスの一行はオリーブ山沿いのベタニアを通って、エルサレムに向かっていた。エルサレムに近づいた時、イエスは少し芝居がかった演出をする。弟子たちにまだだれも乗ったことのない子ろばを調達させ、その上に自分の服をかけると、イエスはそれに乗った。イエスについてきた人々は、自分たちの服を道に敷いたり、野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いて、歓呼の声をあげてイエスのエルサレム入場を祝うのである。あまりの騒ぎに、ファリサイ派のある人々が、弟子たちを叱ってくださいと言うと、イエスは答える。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」(『ルカ伝』19:40)。 こうしてエルサレムに着いたイエスは、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回ると、すでに夕方になっていたので、弟子を連れてベタニアに引き返した。一行はベタニアに宿泊した。
こうしてエルサレムの第一日目が終わった。
ニ日目
翌日ベタニアを出ると、イエスは奇妙な事を始める。空腹をおぼえたので、道端のいちじくの木に近寄ったが、葉ばかりで実がなっていなかった。その季節でなかったからである。そこで、その木から今後いつまでも実がならないようにと呪いの言葉をかける。それからエルサレムへ行くと神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛をひっくり返す。神殿は神の家でありすべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきであるのに、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまったと説く。そうして夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行った。
こうしてエルサレムの二日目が終わった。
三日目
翌日早い時刻に、一行があのいちじくの木のそばを通りかかると、木が根元から枯れているのを見る。
1121そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています」22そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。23はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。24だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。(『マルコ伝』11:21-11:23)
イエスにとって、神を信じるということは、このようなことであった。弟子たちに本当の信仰を語ったものであるが、人間に出来ることではない。人間から出た言葉とも思えない。信仰の本質とはこのようなものであろうか。
一行はエルサレムの神殿に向かうのであるが、神殿では祭司長、律法学者、長老たちが待ちかまえていた。イエスがガリラヤにいた頃から、噂を聞きつけてエルサレムから人を派遣し、イエスの動向を探っていたのである。イエスは体制派にとって、すでに危険人物であった。ダビデの子、メシアが来たと人々から思われていたからである。彼らの意図はすでに決まっていた。「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」(『ヨハネ伝』11:50) とする極めて政治的な判断である。イエスのまわりに集まる民衆が、イエスをメシアと信じることによって、ローマに対する反乱を起こすことを、あるいはローマからそのようにとられることを恐れたのである。そこで祭司長たちは、イエスを告発する証拠を得ようとして、何とかイエスから言質を取ろうとして問いかける。それに対するイエスの答えが、極めて鮮明にイエスの考えを反映しているのである。
1113さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。14彼らは来て、イエスに言った。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか」15イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい」16彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、17イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。(『マルコ伝』(11:13-11:17)
イエスの答えは、言質の取りようがない見事なものだった。地上の論理と天上の論理を明確に分けて解答している。聖職者にとって、神から離れた生活をしているとき、「神のものは神に返しなさい」という言葉はどきりと胸に刺さるのである。われわれが神から預かっているものは、何だったであろうか。あなたのすべてだ、命も身体も。
次にサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねる。サドカイ派というのは、当時の祭司階層の中でもエリート的存在で、貴族的階級に属し神殿中心に活動していた。律法を守ることに忠実で、どちらかといえば庶民的なファリサイ派と対峙していた宗派である。サドカイ派は、霊魂は肉体とともに消滅すると考えており、死後の世界や復活を認めないことで知られていた。モーセ五書に書かれていないからというのが、その理由であった。これは本来伝統的なユダヤの思想である。
1218復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。19「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。20ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。21次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。22こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。 23復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです」24イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。25死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。26死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。27神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている」(『マルコ伝』12:18-12:27)
この挿話の要となるのは、いろいろな読み方があるだろうが、最後のところの「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている」と締めているイエスの言葉である。これを聞いてハッとするのである。イエスは、生きている人たちに説いているのであり、天の王国も生きている人々に臨むのである。死者には聞く耳がなく、感ずる心もない。改めてイエスの言動を見てみると、イエスは死んだ者には実に冷淡であった。関心の外といってもいい。イエスについてゆくにあたって、まず父の葬儀を済ませてからにしたいとたのむある弟子に対して、「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」(『マタイ伝』8:22)と答えている。今生きている者に、天の王国がすぐ近くに来ていることを知らしめること、その福音を説くこと、この緊迫性のなかにあっては、死んだ者に関心を払う余地はまったくないのである。
こうした観点から見れば、前半の神学問答は霞んでしまうのであるが、あえて仮説を立てれば次のような解釈もできると思う。サドカイ派が、仮に復活があるとすれば、生前に七人の夫を持った妻は、復活すると七人の夫と会うことになり、神のもとではありえない事態になってしまう、したがって復活はないのだ、と問いかけるのにたいして、イエスも同じ仮定で話を進める。あなたがたと同じように仮に復活があるとすれば、天の王国というのは、男も女もなくしたがって結婚もなく、人はたとえば天使のようになるのである。天の王国はこのように、地上の人間関係の延長線上ではなく、まったく違う形で現れるのだ。しかもそれは死んだ者にではなく、生きている人々に現れるのだ。ここでイエスは、サドカイ派の信条に反論して、復活があるとの前提で話しているわけではないし、復活があると言明してるわけでもない。
「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とは、モーセに現れた神が、モーセに自己紹介する神の言葉である(『出エジプト記』3:6)。モーセよ、わたしはお前の祖先たちに現れたのと同じ神だ、祖先たちは死んだが、わたしはこのように生きてお前に語りかけている。アブラハムが生きていた当時、わたしはアブラハムに臨んだ。モーセよ、わたしは今はお前に語りかけている。イエスはこのように理解して神の言葉を引用しているのである。こうして「生きている者の神である」と続くのである。イエスはまたこう思っていたであろう。神は永遠の命で生きている。わたしの願いは、生きている人々を、そのまま天の王国に導くことである。死んだ人間の復活ではない。人間の歴史は、洗礼者ヨハネで終わっている。わたしがこの世に来たのは、いまだかってない新しい時代の始まりを人々に告げるためである。その時が来れば、人々は神の子となり、永遠に生きる。それがわたしの福音だ。
次に律法学者が、イエスを試そうとして質問する。メシアといわれているこの男は、律法の精神を本当にどこまで知っているのだろうか。
1228彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」29イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。30心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい』この二つにまさる掟はほかにない」32律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。33そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」 34イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。(『マルコ伝』12:28-12:34)
イエスから完璧な答えが返ってきた。イエスはアラム語の聖書を読んだのであろうか、あるいは会堂で朗誦されるのを聞いて学んだのであろうか。イエスは厖大な律法の教えの中から、真のエッセンスをいとも簡単に取り出して示したのである。
もう敢えてイエスに質問する者がいなくなると、イエスはファリサイ派や律法学者たちを、激しく非難し始めた。彼らとやり取りしているうちに、腹の虫がおさまらなくなったのだろうか。ありとあらゆる罵詈雑言を浴びせるのである。曰く、偽善者、ものの見えない案内人、愚かでものの見えない者たち、蛇よ、蝮の子らよ、預言者を殺した者たちの子孫、等々と口を極めて罵っている。彼らを白く塗った墓に喩えて言う。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている」(『マタイ伝』23:27-28)。口先や形式だけは律法を守っているように見せかけながら、実際は自分たちの権益を守ることに得々としている体制派の祭司たちに我慢がならなかったようである。
一行が神殿を出ると、弟子の一人が神殿の建物のすばらしさ、積んである石の見事さを賞賛した。神殿はヘロデ大王によって紀元前二十年に大規模な改築に着手しており、すでに四十六年✽が経ってまだ工事途上であった。イエスは「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」(『マルコ伝』(13:2)と暗示的なことを言う。神殿の完全な崩壊を予告しているのである。これは世の終わりの予兆である。この話は、夕方になりベタニアに帰ってからも続くのである。
こうして、三日目の夕刻になり、イエスの一行はベタニアへ帰って行った。
✽「イエスは答えて言われた。『この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる』それでユダヤ人たちは、『この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか』と言った」 (『ヨハネ伝』2:19-20)。神殿の大規模改修はヘロデ王によって、紀元前20年に始められたそうである。このことから、この年を推定すれば、紀元27年になるが、すでに四十六年かかって今年は四十七年目だという意味では、紀元28年になると考えられます。