ガリラヤでの宣教が一巡した頃であろうか、イエスの心はエルサレムへ向かっていた。それは宣教を始めた最初から、イエスの心にあったものである。エルサレムで自分が死ぬことはすでに明らかである。だが、そこまでの過程をどのように進めてゆくのか、そしてどのような死に方をするのか、色々と考えたことであろう。自分の最後ははっきり見えている。そこに向かって、そこに至るまで歩んで行かなければならない。他の何事もその障害になってはならない。そして弟子たちにまだ告げていない真実もある。
イエスは、これから自分の身に起こる運命を弟子たちに語る。そのことを繰返して弟子たちに都合三回語ったと記述されている。弟子たちは、師の身に何か恐ろしいことが起こるのを感じるのであるが、それが何なのかはっきり分からない。次の引用は三度目の予告の場面である。
1032一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。33「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。34異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」 (『マルコ伝』10:32-10:34)
一行はエルサレムへ向かっているのであるが、イエスが先頭に立って歩き、弟子たちがそれに驚き、恐れるという記述は、何か当時の実際の情景をリアルに感じさせるものがある。イエスはどんな気持ちで先頭に立って歩いたのであろうか。気持ちが高揚していたのであろうか。自分がこの世に生まれた目的がいよいよ達せられると思ったのだろうか。ガリラヤでの宣教は必ずしも成功だったとは言えないが、これから自分の使命をまっとうできると思ったのであろうか。
それにしても、世界の罪をあがなうために、自らの命を犠牲にするとは、なんという思想であろうか。その使命を躊躇なく遂行させる根拠となっているは、天の王国がすぐそばに来ている、というイエスの認識である。むしろイエスはすでにその渦中にある、すでにその息吹を浴びている、と感じていたであろう。それでこそ、イエスは先頭に立って歩いてゆくのである。