イエスの言葉は、弟子たちにとってなかなか理解できないことが多かった。イエスは天の王国の息吹を浴びた言葉で語り、弟子たちは人間の日常の現実の中におり、次元が違うからである。だから宣教の旅の途上では、大勢の弟子たちがイエスから離れていった。イエスにはついて行けない、イエスは狂っていると思ったからである。その例として、少し長くなるが、以下の引用をしたい。
641ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、42こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」・・・
「48わたしは命のパンである。49あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。50しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。51わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
52それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。53イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。54わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。55わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。57 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。58これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」
59これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。60ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」・・・
66このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。(「『ヨハネ伝』6:41-6:60)
ここで『ヨハネ伝』✽2から引用するのは、まったく私の本意ではないのであるが、弟子たちが失望してイエスから去ってゆく記述がされているのは、この箇所だけなのです。イエスの肉を食べ血を飲む話は、日本人には残酷な印象を与えますが、日本人が生きる糧として米を大事にすることと同様に、遊牧民にとっては生きる糧として羊や山羊や牛の肉や血は大切なものです。ユダヤの民は当初から遊牧民として家畜を飼っており、パレスチナに定住してから、半農半牧の生活になったものと思われます。祭儀に使う献げ物として、小羊それも傷のない一歳の雄と定められていました。当然、小羊を屠るときは、血が出るし、その肉は柔らかくて美味しいのであろう。イエスはこのようなユダヤの宗教的民族的祭儀を、驚くべき宗教的直感をもって、自分になぞらえて語っているのである。
ここでイエスの言葉を額面どおりに受け取ると、誰でも「実にひどい話だ」と感じるだろう。正気の沙汰ではないと思うだろう。次々と弟子の多くが去ってゆくなかで、十二人の使徒は残るのであるが、残った十二人にもそれぞれ思惑があったようである。
というのも、あるとき、弟子のヤコブとヨハネの兄弟が、イエスの前に進み出て特別のお願いをする。彼らはイエスに、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(『マルコ伝』10:37)とお願いする。彼らはその訳が分からないままに、イエスと一緒に栄光の座の上席に就きたいと願っていたのである。これを聞いてほかの十人の弟子たちが怒り出すという一幕もあった。イエスに随行する弟子たちもそれぞれの思惑を抱えているのである。その本音のところには、イエスについてゆけば、良い報いがあるだろうという願望であった。すべてを捨ててイエスのついて来たのだ。
1023イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」24弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。25金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」26弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。 27イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」28ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。29イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、30 今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。31 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(『マルコ伝』10:27-10:31)
別の福音書では、上記と同じ記述の中でペトロが率直に言っている。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」(『マタイ伝』19:27)。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか、とのペトロの問に、イエスはちゃんと良い報いがあることを約束している。「今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」。家、兄弟、姉妹、母、子供の百倍はどういう意味かわからないが、今この世で百倍の畑が手に入る、とイエスは言っていると理解した弟子たちもいたかもしれない。また後の世では永遠の命を受けると言っているではないか。あとのページで書くつもりですが、この「後の世」で、イエスはいわゆる来世、そのような遠い先のことを言っているのではないのです。