イエスの宣教は、次のように始められました。
1 14ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。 (『マルコ伝』1:14-1:15)
また『マタイ伝』には次のように書かれています。
4 12イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。13そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。14それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。15 「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、16暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」17そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。(『マタイ伝』4:12-4:17)
どちらにも共通するのは、洗礼者ヨハネが捕えられてからイエスがガリラヤに帰ったこと、そして「悔い改めよ。天の国は近づいた」と説きはじめたことです。このはじめの言葉は、イエスの本質を語っているので重要です。「神の国は近づいた」あるいは同じことですが「天の国は近づいた」とはどのようなことを意味しているのでしょう。イエスは文字通りイエスにとっての真実を述べているのです。比喩的に言っているのではありません。天の王国はすでに近くに来ているのです。イエスにとってこれほどの真実はありませんでした。イエスにとっては自明なことだったのです。だからそれに気付いていない人々に、知らない人々に、どうしても伝える必要があったし、また伝えなければならなかった。これが福音(良い知らせ、good news)でなくてなんだろう。どうしてこのことを黙っていることが出来ようか。これがイエスが宣教をする最大の動機でした。自分はこれを人々に伝え、そして早く悔い改めさせるためにこの世に生まれてきたのだ。そこからイエスのすべての勇気、すべての言葉、すべての力、そしてすべての行いが出てくるのです。
イエスは、故郷のナザレには帰らず、ガリラヤ湖の北側の湖畔にあるカファルナウムへ引っ越して、そこで宣教を開始したと書かれています。興味深いことです。ナザレの人々はあまりにもイエスを知っていたからでしょうか、小さい頃からそこで育ったのですから。しかし本当のイエスは地元の人々には知られていない。イエスは普通の子として育ち、普通の青年として成長し、父と同じ大工の職を継ぎ、安息日には村の人々と一緒に会堂にゆき、そうした村の生活をひとりの村人として過ごしてきたことが分かります。村の生活のなかで、たとえばイエスが歩くときや挨拶するときの雰囲気、喋る時の調子、なにげない所作や物腰などに、どこか際立ったところがなかったのでしょうか。また会堂での態度や村の長老とのやり取りのなかで、村人の誰もが感心し、イエスはなにか特別のものを持っていると感じさせることはなかったのでしょうか。不思議なことですが、福音書を読む限り、そのようなものはありませんでした、というかそのようなことは何も書かれていません。
イエスは生まれ育ったナザレを避けて、宣教を開始したのです。このことが何かイエスの人間的側面を語っているような気がします。